2011年12月 4日 (日)

第三章 九十九里の智恵子

これは、拙著『阿多多羅山の語源』の第三章「九十九里の智恵子」の抜粋です

智恵子は、病気療養のため、一時期を千葉県北東部・九十九里浜で過ごしました。

太平洋に面した九十九里浜は、海水浴場として親しまれていました。当時智恵子が

暮したのは真亀納屋という小さな漁村で、持主の名から「田村別荘」と呼ばれた家は、

黒松の防風林に囲まれ、その先には弓状の九十九里浜が広がっていました。

  海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。

ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化

した智恵子は、昭和九年(一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と

一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い

取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。

しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が

被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。

  九十九里の砂浜の一角に、高村光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」が建立されたのは、

地元の「白涛俳句会」の青年達のお陰です。戦後間もない昭和二十三年四月頃、米軍の

高射砲演習場・豊海基地が作られ、基地周辺に赤線地帯ができるなど一帯の風紀が乱れて

いました。数年後、ミサイルの発達で高射砲基地は撤退しましたが、荒廃した基地の爪跡は

残ったままでした。昭和二十九年、地元数人の青年を核とする句会「白涛俳句会」が誕生し、

荒廃した故郷を再生しようと努力したのです。当時九十九里町議会議員だった鈴木美好は、

著書 『回想 砂丘の詩碑』のなかでこう記しています。

「昭和三十一年四月二日、高村光太郎は亡くなった。

筑摩書房は追掛けるように、『日本文学アルバム高村光太郎編』の出版企画を持ち、

編纂者は草野心平であった。

草野心平は直ちに、九十九里基地の真亀納屋まで足を運び、智恵子の療養跡、田村

別荘周辺のガサ藪までも撮影し、その文学アルバムに収めた。そして現在石も木片も

無いと嘆いて解説した。私は、その解説の中に、草野心平の意識と激しいい息遣いを

聞いた。

九十九里における智恵子抄の歴史的な拠点を、今こそ作る時だ。と思った」(後略)

 昭和三十六年「白涛俳句会」による詩碑建立運動が、町ぐるみの運動となって、高村

光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」が建立除されました。詩碑は今でも国民宿舎「サン

ライズ九十九里」に隣接して保存されていますがる、訪れる人は少なくなるばかりです。

               千鳥と遊ぶ智恵子

   人つ子ひとり居ない九十九里の砂濱の

   砂にすわつて智恵子は遊ぶ。

   無数の友だちが智恵子の名をよぶ。

   ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― 

    砂に小さな趾あとをつけて

   千鳥が智恵子に寄つて来る。

   口の中でいつでも何か言つている智恵子が

   両手をあげてよびかへす。

   ちい、ちい、ちい――

   両手の貝を千鳥がねだる。

   智恵子はそれをぱらぱら投げる。

   群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。

   ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

   人間商賣さらりとやめて、  

   もう天然の向うへ行つてしまった智恵子の

   うしろ姿がぽつんと見える。

   二丁も離れた防風林の夕日の中で

松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち盡す。    (昭和十二・七) 

  

 

「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の

住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。

九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の

永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチ

ホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にあり

ました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた

田村別荘のあった場所だそうです。

当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち

際が見えたと言われています。

永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を

製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、

永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した

場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で

書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。

 その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。

博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。

千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が

噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。

  光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ

浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。

 

 

 

2011年8月 7日 (日)

第二章 ほんとの空

第二章  「ほんとの空」

この第二章の内容は、出版した「阿多多羅山の語源」と一部異なっています

その理由は、本文を大幅にカットして抜粋したためです。

  「あどけない話」                   (高村光太郎、昭和三・五)

    智恵子は東京に空が無いといふ、
    ほんとの空が見たいといふ。
    私は驚いて空を見る。
    櫻若葉の間に在るのは、
    切つても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながら言ふ、
    阿多多羅山の山の上に
    毎日出てゐる青い空が
    智恵子のほんとの空だといふ。
    あどけない空の話である。                    

 この詩を読んだ読者の大半は、写真で良く見る「白銀の安達太良山の上に広がる

 果てしない青空」を想像されるでしょう。しかし、智恵子が「ほんとの空」と言った

 のは、果たしてそのような空だったのでしょうか。

 「ほんとの空」を第二章のテーマにしたのは、二つの理由があります。

 1. 冬の間、厚い雪雲に覆われている東北で、本当に「青い空」が「毎日出てゐる」

   のでしょうか。

 2. 智恵子の住まいからは、裏の鞍石山に遮られて安達太良山を見ることは

   できません。

  智恵子はいったいどこで「毎日出てゐる青い空」を見ていたのでしょうか。

 詩の「毎日出てゐる青い空」の「毎日」という言葉が例え比喩だとしても、智恵子は

 殆ど毎日のように青い空を見ていたのです。その「ほんとの空」とは果たしては

 存在するのでしょうか。その青い空とは、阿多多羅山の形状に関係しています。

その空とは一瞬にして現れ、儚く雲間に消える小さな青空です。

この小さな青空は安達太良連峰の中でも、安達太良山にだけに見られる特異な

現象で、それは安達太良山の山容と深い関係があります。

  安達太良山は現在でも活火山であり、火口からはガスがうっすらと噴出して

 います。安達太良火山群の活動が開始したのは洪積世の中頃と推定され、

 その後、洪積世の末までに断続的に激しい火山活動があって、ほぼ現在の

 火山体ができあがったとされています。有史以降、安達太良山の噴火の記録が

 残っているのは、明治三二年(一八九九)から同三三年にかけての爆発の四回

 だけです。 明治三三年には大規模な大爆発を三回繰り返し大火口ができ、

 沼ノ平火口底にあった硫黄精錬所はすべて破壊され、従業員など死者七○余名と

 いう大惨事があったのです。


  現在の安達太良山は太平洋に面している東側から見ると、別名乳首山といわ

 れるほどやさしい山容を見せています。しかし、日本海側に面している西側は、

 明治三二年におきた大噴火で大きく削りとられ、一面灰褐色に覆われた不気味な

 様相をしています。火口の中心の沼ノ平では現在でも泥水の噴出や有毒ガスの

 噴出が続いていて、一九九七年には沼ノ平を散策中の四人が有毒ガスで死んで

 います。


 特に、冬季は日本海側から吹き寄せる烈風が、火口壁にぶつかり、山頂に吹き

 荒れ、烈風がどんよりと立ちこめる雪雲を吹き飛ばし、そこに小さな青空が出現

 します。風が弱まれば、あっという間に厚い雲に覆い隠されてしまう小さな青空です。
 

 そのような小さな青い空を含めて「毎日出てゐる青い空」を智恵子はどこで見て

いたのでしょうか。安達町油井に、復元された智恵子の生家があります。当時の

智恵子の居室だったといわれている二階の居室の窓からは、裏手の鞍石山に

遮られて、十数km離れた安達太良山を見ることはできません。生家がある油井の

街並みからも、鞍石山のために安達太良山を見ることはできないのです。

 生家や街並みから、安達太良山が全く眺望できないにもかかわらず、なぜ、

 智恵子は「阿多多羅山のうえに、毎日出てゐる青い空」が「ほんとの空」だといって

 いるのでしょうか。地理的に見ると、智恵子の生活圏である油井周辺で、

 安達太良山が眺望できるのは、裏山の鞍石山山頂、油井小学校、二本松駅周辺、

 安達が原付近など、ごく限られた場所です。



  智恵子が通学していた油井小学校は、智恵子の生家から北東へ五○○m程の

 所にあり、子供の足でもせいぜい一○分程の距離です。明治二十六年(一九

 八三)、八歳で油井小学校に入学した智恵子は、一二歳で尋常小学校四年を

 卒業し、補習科に編入、高等科を経て一六歳で卒業しました。その後、福島町立

 福島高等女学校に編入学し八歳から一六歳まで智恵子が通学した油井小学校は

 現在も油井町の街道沿いの小高い所にあります。県道である二本松・安達

 線の車道から、左へ四○段ほどの石段を上がり、石の校門を入ると広い校庭に

 出ます。この校舎からは安達太良山が一望できるのです。当時の智恵子が

 安達太良山の青空を眺望できた場所は、毎日通学した油井小学校だけです。

 智恵子は「毎日出てゐる青い空」をこの油井小学校で見ていたのです。


 「あどけない話」の詩は、光太郎が四六歳、智恵子が四三歳の昭和三年

(一九二八)に発表されました。当時、智恵子の実家では、父の今朝吉の死後、

家庭内の問題などから酒造業の経営に行き詰まっていていたのです。

東京に暮らす智恵子は、実家のことを心配して、母センに幾度も手紙を送って

います。

若い時からあまり丈夫でない智恵子は、光太郎と結婚した後も、毎年のように

一年に三、四ヶ月は郷里の二本松の実家へ帰って静養していました。

  自分の芸術への行き詰まりに端を発し、実家の経営不振に怯え、智恵子は

 帰るべき実家を失ってしまうのではないかという不安に駆られていました。

 「あどけない話」は、「ほんとの空が見たいといふ」望郷の日々を詠ったもの

 なのです。

  智恵子や光太郎の尽力もむなしく翌年の昭和四年(一九二九)に、長沼家は

 倒産し一家は離散しました。昭和五年(一九三〇)に智恵子は湿性肋膜炎を病み

 入院し、その後も入退院を繰り返すなど病気がちでした。昭和六年(一九三一)、

 智恵子が四六歳のとき、光太郎が三陸方面の旅行で一ヶ月留守をしていた間に、

 精神分裂病の最初の兆候があらわれました。そして、昭和七年(一九三二)七月

 一五日、智恵子は睡眠薬アダリンを一瓶飲み自殺未遂。その翌年あたりから

 精神喪失の状態が続き、精神分裂症の様態が悪化しはじめのです。 昭和一三年

 (一九三八)十月五日、智恵子は五三歳で逝きました。直接の死因は粟粒性肺結核

 となっていますが、精神分裂病は終生治らなかったのです。

 

  遺された千数百点の智恵子の紙絵は、セントジェームス病院に入院中に、終日

 窓に背を向けて、押入のふすまに向かい色紙をちぎって丹念に作ったものです。

 食事に出されたおかずの魚にお辞儀をしながら作った魚の紙絵もあります。

 外界に心を閉ざした智恵子は、故郷の小学校で見た「毎日出てゐる青い空」の

 下で、幸せだった少女の頃に戻っていたのではないでしょうか。

 

  

 

2011年3月29日 (火)

第一章 阿多多羅山の語源 (10)

これまでの説明で、「智恵子抄」に登場する阿多多羅山という山名は、光太郎の創名であり、

その語源は「般若心経」にあるのではないかということが、わかって頂けたかと思います。

2010年8月、小生は「阿多多羅山の語源」という小冊子を自費出版しました。

阿多多羅山の語源を解明した初めての本だと自負しています。

出版の意図は、阿多多羅山が安達太良山の古名だという通説の誤りを正し、阿多多羅山と

いう山名は「智恵子抄」のために光太郎の創名したものだということを、広く世間に知って

貰うためです。そのため、阿多多羅山の語源について詳述しました。

2010年11月に「週刊ふるさと百名山No21磐梯山、安達太良山」(集英社)が発売されました。

その発売の3ヶ月前に、編集と出版に携わる「山と渓谷社」と「集英社」に、拙著を謹呈し

ました。阿多多羅山が古い山名だという通説の誤りを指摘するためでした。

3ヶ月後、発売された「週刊ふるさと百名山No21 磐梯山 安達太良山」(集英社)では、

詩人の城戸朱理が、安達太良山と阿多多羅山の山名の違いについてこう解説しています。

    興味深いのは「阿多多羅山(あたたらやま)」という表記だろう。

福島県北部、奥羽山脈中にあって、那須火山列にあるこの山は、通常、安達太良山

(あだたらやま)と呼ばれている。福島の友人に尋ねても「あたたらやま」という呼称は

ないとのことだった。 

阿多多羅山という名称、すでに万葉集にも「吾田多良の嶺」として見えるが、その

語源には諸説があり、坂東太郎と同じように、安達郡の最高峰であるところから

安達太郎が転じたという説やアイヌ語起源説、さらには、鉄山が実在するので、

製鉄のためのタタラ(ふいご)伝説に由来するとか、同じタタラでも、火を噴き上げる

火山であるところから名付けられたという説もある。

  しかし、どの説によっても名称は安達太良(あだたらやま)山であって、光太郎の

     阿多多羅山(あたたらやま)は、詩人の創作らしい。おそらく、光太郎は、智恵子その

    人を思わせるような彼女の故郷の山河を語ろうとしたときに、安達太良山の濁音は、

    透明感を損なうと思ったのではないだろうか。

     あれが阿多多羅山。

        あの光るのが阿武隈川。

     開口母音「a」の連なりが美しい、単純でありながら、印象深い詩行である。   (後略)

 発売の3ヶ月前に贈った拙著「阿多多羅山の語源」を、参考にしたかどうかは不明です。

「阿多多羅山の山名が光太郎の創名らしい」という文中の一節に役に立っていれば幸いです。

 それ以前、2008年11月に発売された「週刊日本百名山No42 磐梯山 安達太良山」

(朝日新聞出版)には、このように記しています。

「あだたらの名は早くも『万葉集』に出ている。

安太多良の嶺に伏す鹿猪のありつつも 吾は到らむ寝処な去りそね

陸奥の安太多良真弓弾き置きて 反らしめきなば弦着かめかも

      叙景の歌ではないから、この安太多良が今の安達太良山であるかどうか、

      確かめる手だてはない。しかしそんな昔にこの山の名が知られていたことは、

      興味深い。

      おそらく『万葉集』に出てくる山では、最北のものだろう」         (後略)

この本では、阿多多羅山の山名が光太郎の創名だということには、触れられていません。

小生は拙著「阿多多羅山の語源」を、主要新聞社各社の文化部に寄贈しましたが、全く

反応はありませんでした。阿多多羅山の由来などに全く関心がないためでしょうか。

しかし、阿多多羅山が安達太良山の古い山名だという間違った通説は正さなくてはなりません。

せめて「智恵子抄」の愛読者だけにでも、阿多多羅山という山名に込めた光太郎の心情を

知って欲しいと願い、拙著の抜粋をここに公開したわけです。

「阿多多羅山の語源」 (B5版70頁)は次の三章に分かれています。

第一章 「阿多多羅山の語源」 (ダイジェスト版・前述)

第二章 「ほんとの空」 

「智恵子抄」の詩「あどけない話」に出てくる青空の話です。智恵子は毎日出ている

青い空をほんとの空だといっていますが、智恵子の実家からは、阿多多羅山の空は

見られません。智恵子が見たほんとの空とは、どんな情景だったのでしょうか。

第三章「九十九里の智恵子」

      千葉県九十九里町にある光太郎の詩碑にまつわる話です。

晩年、精神を病んだ智恵子は療養のため、 一時期を九十九里浜で過ごしました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」の詩碑の建立に努力した地元の方々の努力と、「智恵子抄」を

愛する人々のエピソードを記しました。

第二章、第三章についても、いずれ次のブログで触れてみたいと思っています。

ご愛読頂き有難うございました。                         

                                                    <終>

2011年2月27日 (日)

第一章 阿多多羅山の語源 (9)

一つの漢字に一つの音をあてる、いわゆる一字一音の史料を探すと、現在でも身近で

使われている原典に気がつきました。それは写経の手本にもなっている「般若心経」です。

日本への仏教の伝来は、552年と538年の2説がありますが、一般的に538年が有力と

されています。その時にもたらされた経典のひとつが「般若心経」です。
「般若心経」は「大般若経」(全六〇〇巻)のエッセンスを纏めたもので、二百六十余字という

経を唱えれば、同じ功徳が得られるものとされ、日本仏教の多くの宗派で採りいれられて

います。

原典は古代インドの言語である梵語(サンスクリット語)で書かれていますが、玄奘三蔵法師に

よって原語のまま漢字に音訳されています。

    「摩訶般若波羅蜜多心経」( マカハンニャハラミッタシンギョウ)

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。・・・

この般若心経の用字法は、ア=阿、タ=多、ラ=羅の一字一音となっています。

奈良の興福寺にまつられている国宝「阿修羅像」や、猿楽者らが芸能の守護神としてきた

摩多羅神(宿神)も、同じく一字一音の用字例です。

光太郎は「安達太良山は古くはアタタラとよばれ、当時は一字一音で書いて阿・多・多・羅

だった」と示唆しているのです。


そのため、私は阿多多羅山の山名の語源は、「般若心経」だと確信しています。
安達太良山を阿多多羅山と表記したのは、光太郎の『智恵子抄』が初めてです。

光太郎によって、阿多多羅山という山名が創名され、「智恵子抄」で不朽のものとなりました。

光太郎と般若心経との深い係わりについては、佐々木隆嘉が智恵子の妹の斉藤せつ子を

九十九里に訪ねた際の著書「ふるさとの智恵子」にこう書かれています。

「ふるさとの智恵子」(佐々木隆嘉著)より抜粋

「せつ子さんは、光太郎墨筆で、表紙と経入れ袋に草花模様の刺繍を智恵子が美しく施した

般若心経を所蔵していられる。

  光太郎の経文は菊花葉模様の型紙の上下を見せて中部に白紙を貼り『摩訶般若波羅蜜

  多心經』と題書し、経本一折頁に三行ずつ二百七十文字を楷書で謹厳に美しくていねいに

  書かれてある。

経の表紙は多分智恵子が織った布に濃紺の草木染をしたと思われるものに、草花・茎・葉の

模様を刺繍して、装釘も智恵子の手になったものと思われる。経入れ袋も美しい花・実の

模様を刺繍してあるが、お経の表紙の模様の色はしぶく、袋の模様の色は淡く明るく変化

が あり、草の実らしいピンクの三つの丸が美しく目立つ。

これは母へと贈られたものとのことであるが、その時期は明らかでない。智恵子がまだ

健全な時の作であることは間違いないが、母がどこに居った時に贈られたものか、せつ子

さんも判らないとのこと。

兎に角、深い真心をこめて書かれ作られたものであることが察せられるものであるが、

或いは智恵子への祈りをこめ光太郎が写経したものに、智恵子が装釘し、智恵子が

持っていたものであるかもしれない」  

このエピソードでもわかる通り、光太郎は「般若心経」の一字一音を原典に、アタタラの山名を

阿多多羅と漢字表記したのです。

光太郎が「阿多多羅山という書き方は古くからあった。安達太良より古いいんじゃないかな」と

いう意味が、これで理解いただけるものと信じます。

そこには、太古の姿をとどめている安達太良山に対する、光太郎の強い畏敬の念がこもって

います。 

                                                     <続く>

2011年2月 6日 (日)

第一章 阿多多羅山の語源 (8)

それでは、光太郎が言うように「阿多多羅山という書き方は古くからあった」という根拠は

どこにあるのでしょうか。

前述した通り、安達太良山は現在も活火山であり、江戸期の地誌では『安達郡の最高峯

すなわち太郎である』『アイヌ語の乳はアタタという』『ふいごのタタラ』(火を噴く)である

などとその山名の由来が説かれています。


万葉集以前は、清音の大和言葉でアタタラヤマと呼ばれていたと光太郎は示唆しています。

更に「阿多多羅山という書き方は(もっと)古くからあった」とも言っています。

万葉集に詠われている吾田多良・安太多良という山名より古くからあったとすれば、阿多多羅山

の語源はどこにあるのでしょうか。

安達太良山という山名の由来について、史料を遡ってみましょう。

現在でも、安達太良山の地元では、別名で「岳山」「沼尻山」「乳首山」とも呼ばれ、東側の

二本松市では「東岳」、西側の猪苗代町では沼尻山と呼ばれています。

その山名の推移をみると

1.  万葉集ではその地域の総称から安太多良、吾田多良と詠まれていた。

2.  江戸時代に谷文晁の描いた「江戸百名山図譜」には「吾田多良山・在 陸奥州安達郡

二本松城西」と記されている。

3. その後、安達郡という郡名にちなんで、安達郡で一番高い山を意味する安達太郎から

安達太良に転じたと言われている。



これらを見る限り、古い史料にも阿多多羅山という山名は全く登場しません。

しかし、光太郎は万葉集の安太多良、吾田多良より古くからあったと示唆しています。


万葉集に安達太良山が登場する和歌は三首で、第七巻・一三二九番ではこう詠われています。

因みに、万葉集の和歌は、当時使われていた万葉仮名で書かれています。

陸奥之 吾田多良真弓 著糸而 引者香人之 吾乎事将成

ミチノクノ アダタラマユミ ツルスゲテ ヒケバカヒトノ ワレヲコトナアム

(陸奥の国の安達太良産の真弓に弦を張って引いたら、人が私のことをとやかく噂する

だろうか)   

しかし、万葉仮名は一字一音ですが、その用字例は、ア音=安・阿、 タ音=多・他、 

ラ音=良・浪・郎・羅・楽 という風に、同じ音に対して、何通りもの漢字が使われています。

例えば、ア音を表す際には、阿より安の字が多用されています。

日本最古の勅撰歴史書、日本書紀の用字例をみると、次のように一字一音が用いられて

います。
 ア音=阿・安。 タ音=多 。 ラ音=羅。 

ア音に阿と安という二通りの漢字がある以上、阿多多羅山は安多多羅山と書くことも

できるので、日本書紀に阿多多羅山の語源があるとはいえません。

では、光太郎は何を根拠にして、ア=阿、タ=多、タ=多、・ラ=羅 と断定したのでしょうか。                                                

                                                <続く>

2011年1月10日 (月)

第一章 阿多多羅山の語源 (7)

高村光太郎全集の編者である北川太一は、編纂中にわからないことがあれば

光太郎に直接尋ねて『高村光太郎聞き書』に残しています。

その中で光太郎は次のように述べています。「阿多多羅山という書き方は古くからあった。

安達太良より古いいんじゃないかな。阿武隈川と書いて『オオクマガワ』と土地の人は

読んでいる。でも詩では『アブクマガワ』の方がいいんでそうしたんです」

それを受けて北川太一は『高村光太郎聞き書』に「安達太良より古いいんじゃないかな」

と記しています。


しかし、彫刻家・詩人・歌人でもある光太郎は「アダタラ(万葉集に詠われている吾田

多良、安太多良)より古いんじゃないかな」と言ったのではないかと推測します。

なぜなら歌人である光太郎が、万葉集に載っている吾田多良の和歌を知らない筈は

ないからです。二人の会話を次のように解釈したらどうでしょうか。


光太郎 「アダタラ(万葉集に詠われている吾田多良・安太多良)より古いんじゃないかな」

太一   「アダタラ(現在の安達太良山)より古いんじゃないかな」


同じ発音のアダタラですから、光太郎は万葉集の和歌よりもっと古い山名だと言っている

に対して、北川太一は現在の山名より古い山名だと勘違いした可能性が窺えます。

話し手と聴き手の知識の差による食い違いがあったのではないかと思います。

光太郎は、「万葉集の吾田多良(安太多良)よりももっと古くから阿多多羅山という

書き方はあった」と言っているのです。

光太郎のいう阿多多羅山の語源は、万葉集以前にさかのぼる必要があります。


安達太良山は、太古からの活火山であり、江戸期の地誌では『安達郡の最高峯

すなわち太郎である』『アイヌ語の乳はアタタという』『ふいごのタタラ』(火を噴く)である

などとその由来が説かれています。


別の言い方をすれば、アダタラ(という濁音混じりの山名の)前は、大和言葉でアタタラ

(という清音だけの山名)だったと、光太郎は示唆しているのです。

ここでいう大和言葉とは、我が国固有の言語です。漢字が伝わる前の、縄文時代に

さかのぼる昔から、日本で話されてきた言葉のことです。

かなり昔の言葉だから分かり難いのかというと、決してそうではありません。

私たちが日常使っている言葉の「訓読み」が、基本的に大和言葉です。「天」なら「テン」

ではなく「アマ」、「地」なら「チ」でなく「ツチ」、「山」なら「サン」ではなく「ヤマ」、「林」なら

「リン」ではなく「ハヤシ」と読むのが大和言葉です。

ここで、日本古来の大和言葉について、興味深いエピソードを紹介しましょう。

2001年4月に「ものつくり大学」(埼玉県行田市)が開校しました。日本の技術を後世に

伝えるため、その後継者を育成するための大学です。この大学の名称を決定する際、

総長として就任した梅原猛は新聞のインタビューのなかでこう述べられています。

「大学の名称は国際とか技能とかいう二字の漢文化の時代はもう済んだ。濁らない

大和言葉が新鮮に響く。『ものつくり大』でいったらと提案し、教員の間でまとまった」 

そこで、梅原総長は「濁らない大和言葉が新鮮に響く」と言っています。そのため、

新大学の名は「ものつくり大学」であり、「ものづくり大学」ではありません。

梅原総長は大学の新設にあたって、大学名は濁音を含まない清音の大和言葉とし、

日本文化の原点に立ち戻る大切さを提言されたのです。

これらを踏まえると、光太郎が「アタタラヤマという書き方は古くからあった。アダタラより

古いいんじゃないかな」と言った意味がはっきりしてきます。

光太郎は更に「阿多多羅山という書き方は古くからあった」」と当時の漢字の使用法まで

言及しています。「そのため智恵子抄では阿多多羅山と書いた」と説明しているのです。

                                                  <続く>  

2010年12月26日 (日)

第一章 阿多多羅山の語源 (6)

それでは、阿多多羅山という山名の語源は、どこにあるのでしょうか。

小生は『智恵子抄』を読んで、安達太良山が阿多多羅山と詠われているのはなぜかと

疑問に思い、万葉集にも載っているという通説通りに『万葉集』も調べましたが、

阿多多羅山という山名は登場しません。

では、なぜ古来の山名と言われているか、その語源を知りたいと思いました。

そこで、地元に問い合わせればわかると思い、阿多多羅山の語源について、

二本松市へ問い合わせをしましたところ、二本松市教育委員会の某氏から、執筆した

雑誌の記事を頂きました。その内容は「仕事柄、照会が多々あるなか、『あだたら山の

漢字はどれが正しいのか』と質問が何度かある。古記録や史料から列挙すると『安太多良』

『吾田多良』『安達太郎』『阿多多羅』そして『安達太良』がある。しかし、これらの漢字の

当て方は、その時代時代によって使われているため、いずれも誤りではなく、すべてが

正しいのである」

しかし、図書館等でいくら史料を調べても、阿多多羅山という山名は見当たらず、万葉集

に載っていないため、その旨を書いて再度問い合わせたところ、同氏から改めて回答を

頂きました。

「拙稿で『阿多多羅山』をも含めましたが、この当て字は恐らく高村光太郎が“樹下の二人”で

使用したのが最初であると考えます。だだし、光太郎自身で考え字を当てたのか、何らかの

文献・史料から引用したのかわかりませんが、私が知り得る限り江戸時代以前の史料等には、見い出せません」

地元の方でさえ、語源を確認するまでは、古い山名のひとつであると思っていたのです。

地元の作家、猪狩三郎の『安達太良山と文学』には、「あだたらの漢字表記として『吾田多良』

『安達太良』『阿多多羅』『安太多良』『安多多良』の五通りを確認しており、『阿多多羅山』も

古くからある山名のひとつである」と記されています。しかしその根拠は明記されていません。

安達太良山に詳しい方々でさえ、阿多多羅山は古くからの山名だと信じているため、

間違った説明が世の中を罷り通っているのは、やむを得ないことかもしれません。

もしかすると、阿多多羅山という山名は光太郎の創作した山名ではないか。

その語源を解明すれば、光太郎の心情の一端がわかるのではと思い、阿多多羅山の

語源を探ることにしました。

光太郎は「阿多多羅山は安達太良より古いんじゃないかな」と言っています。

それはいったい何を意味しているのでしょうか。                    

 <続く>

2010年12月 6日 (月)

第一章 阿多多羅山の語源 (5)

安達太良山と阿多多羅山 (5

本題に戻り、「阿多多羅山の語源」を探ります。旅行ガイドブックや観光パンフレットには

「安達太良山は古来『安太多良』『吾田多良』『安達太郎』などと呼ばれおり『阿多多羅』と

いう字を使った例は万葉集にも出てくる」と紹介されていますが、これは間違いです。

まずは、万葉集に阿多多羅山という山名は登場しないことを立証します。

万葉集には安達太良山を詠んだ和歌(万葉仮名)が三首掲載されています。

1. 陸奥之 吾田多良真弓 著糸而 引者香人之 吾乎事将成 

(ミチノクノ アダタラマユミ ツルスゲテ ヒケバカヒトノ ワレヲコトナサム)

(陸奥の国の安達太良産の真弓に弦を張って引いたら、人が私のことをとやかく

噂するだろうか)

2. 安太多良乃 祢尓布須思之能 安里都都毛 安礼波伊多良牟 祢度奈佐利曽祢

(アダタラノ ネニフスシシノ アリツツモ アラハイタラム ネドナサリソネ) 

(安達太良の嶺に臥す猪鹿(しし)のように、私は変わらずずっとかよって行きます。  

 寝床を離れないでください)

3. 美知乃久能 安太多良末由美 波自伎於伎弖 西良思馬伎那婆 都良波可馬可毛

 (ミチノクノ アダタラマユミ ハジキオキテ セラシメキナバ ツラハカメカモ)

   (陸奥の安達太良真弓は弦を外して置いて、反らせたままにして来たら弦は掛けられ

   ようか。掛かるものではない) 

上記の三首でわかる通り、山名は吾田多良、安太多良の2種類だけです。阿多多羅山と

いう山名は全く登場しません。原典の万葉集を調べもせずに間違った通説が罷り通り、

ガイドブックや観光パンフレットでは、今でも誤った説明を掲載したままです。

古来、安達太良山は、東側の二本松市では「東岳(あずまだけ)」、西側の猪苗代町では

「沼尻山(ぬまじりやま」と呼ばれ、または別称で「岳山」「乳首山」とも呼ばれていました。

別称を持つ山は多く、同じ山で山名の漢字表記や呼び名が違う例はいくつもあります。

例えば、富士山は「不二」「不尽」「布士」、美称として「芙蓉峰」「蓬莱峰」などが使われ、

日光の男体山は別名で「黒髪山」「二荒山」「補陀落山」と呼ばれていました。

しかし、富士山も日光の男体山も、その別称はいずれも地元の伝承に基づくものであり、

古い史料に史実として残っているものばかりです。

一方、阿多多羅山という山名は、地元に伝わる伝承や史実に全く存在しません。

本宮町にある古い神社は、安達太良神社といい、阿多多羅神社とは言いません。

現在の安達太良山という山名は、昔の安達郡にあった一番高い山で、安達太郎と

呼ばれていたのが安達太良山に転じたものと言われています。「吾田多良」

「安太多良」「安達太郎」「安達太良」は史料に登場しますが、「阿多多羅」はどこにも

見当たりません。

                           <続く>

2010年11月 1日 (月)

第一章 阿多多羅山の語源 (4)

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・」で始まる「樹下の二人」については、

光太郎が記した文章を読むと、詩の内容がより深く理解できると思います。

光太郎は当時のことを次のように記しています。

智恵子は東京に居ると病気になり、福島県二本松の實家に帰ると健康を恢復

するのが常で,大てい一年の半分は田舎に行ってゐた。その年(大正12年春)も

長く實家に滞在していたが、丁度叢文閣から『続ロダンの言葉』が出てその印税を

入手したので、私はそれを旅費にして珍らしく智恵子の實家を訪れた。智恵子は

大よろこびで、二本松界隈を案内した。二人は飯坂温泉の奥の穴原温泉に行って

泊つたり、近くの安達が原の鬼の棲家という巨石の遺物などを見てまはつた。

或る日、實家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのやうな

見晴らしをながめた。水田をへだてて酒造りである實家の酒倉の白い壁が見え、

右に『嶽』と通称せられる阿多多羅山(安達太良山)が見え、前方はるかに

安達が原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。(原文ママ。光太郎全集)

ふたりで崖に腰を下ろし、登ってきた山道を見降ろすと、眼下の街並の先に阿武隈川が

きらりと光り、振り返ると右後ろには、碧空の下に安達太良連峰が横たわる・・・・・。

現在では崖付近は木々に覆われて、眼下の油井の街並みを見ることができませんが、

梢の間からは白く光る阿武隈川を望むことができます。

「樹下の二人」についてもうひとつ是非触れておきたいことがあります。

それは、「樹下の二人」の題名の後に続く前歌のことです。

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

この歌は詩とセットになっていますが、詩と同時期に作られたものではなく、合作された

ものです。

光太郎はこう記しています。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が

木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。

   詩の方はお寺にゆく道の山の上に見晴しの良いところがあってね。その土塁の

   上に座って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから

 作ったんです。詩と歌とは別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

                                   (原文ママ。光太郎全集)

前歌を熟読したうえで、詩を読み返すと、一層感慨深いものがあります。

                                               <続く>

2010年10月 3日 (日)

第一章 阿多多羅山の語源 (3)

『智恵子抄』の詩「樹下の二人」について、少し補足説明します。
阿多多羅山が初出したのは「樹下の二人」で、詩歌雑誌「明星」に発表
されたのは、大正12(1923)年4月、光太郎41歳、智恵子38歳の時です。

光太郎は、詩の想い出として、大正12年に初めて鞍石山へ登ったと
語っていますが、それは本人の勘違いのようです。「続ロダンの言葉」が
出版されたのは大正9年5月で、その印税で光太郎は帰郷中の智恵子を訪れ、
3年後の大正12年3月に作詩、4月に発表しました。(ふるさとの智恵子)
もしも、光太郎の記憶通り鞍石山へ登ったのが大正12年初春だとしたら
「・・冬のはじめの物寂しい・・・」という一節にはならなかった筈です。

それはさておき、『智恵子抄』に惹かれて現地を訪れた時、私は思いがけない
体験をしました。「樹下の二人」を読んだ印象では、果てしない青空の下に
安達太良山があり、その手前には阿武隈川が光り、眼下に白壁の酒蔵が
見えるという、一枚の風景画を想像していました。

しかし、私は初めて鞍石山に立ち、愕然としました。
目前に広がるのは白銀の安達太良山だけです。そして、くるりとを振り向くと、
遠くに蛇行する阿武隈川が白く光り、眼下に小さな家並みが見えたのです。
それは、一枚の風景画ではなく、ぐるりと360度広がるパノラマだったのです。
「もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教えて下さい」という詩の
一節が初めて実感できました。
現地を訪れ、同じような体験をなさった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

それ以来、何度も二本松を訪れているうちに、新しい発見もありました。
「あどけない話」という詩で、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/
智恵子のほんとの空だといふ」と詠われた「ほんとの空」は、絶対に此処からの
風景に違いないと思われる場所を見つけました。

いずれ、第二章「ほんとの空」で詳しく説明しますが、機会がありましたら是非
安達太良山に近い智恵子の故郷を訪れて頂きたいものです。
智恵子の生家や智恵子記念館だけでなく、詩の舞台となった鞍石山、智恵子の
菩提寺、智恵子の卒業した油井小学校、安達が原など、お薦めのスポットが
沢山あります。                                 <続く>

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