第三章 九十九里の智恵子
これは、拙著『阿多多羅山の語源』の第三章「九十九里の智恵子」の抜粋です。
智恵子は、病気療養のため、一時期を千葉県北東部・九十九里浜で過ごしました。
太平洋に面した九十九里浜は、海水浴場として親しまれていました。当時智恵子が
暮したのは真亀納屋という小さな漁村で、持主の名から「田村別荘」と呼ばれた家は、
黒松の防風林に囲まれ、その先には弓状の九十九里浜が広がっていました。
海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。
ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化
した智恵子は、昭和九年(一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と
一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い
取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が
被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
九十九里の砂浜の一角に、高村光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」が建立されたのは、
地元の「白涛俳句会」の青年達のお陰です。戦後間もない昭和二十三年四月頃、米軍の
高射砲演習場・豊海基地が作られ、基地周辺に赤線地帯ができるなど一帯の風紀が乱れて
いました。数年後、ミサイルの発達で高射砲基地は撤退しましたが、荒廃した基地の爪跡は
残ったままでした。昭和二十九年、地元数人の青年を核とする句会「白涛俳句会」が誕生し、
荒廃した故郷を再生しようと努力したのです。当時九十九里町議会議員だった鈴木美好は、
著書 『回想 砂丘の詩碑』のなかでこう記しています。
「昭和三十一年四月二日、高村光太郎は亡くなった。
筑摩書房は追掛けるように、『日本文学アルバム高村光太郎編』の出版企画を持ち、
編纂者は草野心平であった。
草野心平は直ちに、九十九里基地の真亀納屋まで足を運び、智恵子の療養跡、田村
別荘周辺のガサ藪までも撮影し、その文学アルバムに収めた。そして現在石も木片も
無いと嘆いて解説した。私は、その解説の中に、草野心平の意識と激しいい息遣いを
聞いた。
九十九里における智恵子抄の歴史的な拠点を、今こそ作る時だ。と思った」(後略)
昭和三十六年「白涛俳句会」による詩碑建立運動が、町ぐるみの運動となって、高村
光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」が建立除されました。詩碑は今でも国民宿舎「サン
ライズ九十九里」に隣接して保存されていますがる、訪れる人は少なくなるばかりです。
千鳥と遊ぶ智恵子
人つ子ひとり居ない九十九里の砂濱の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つている智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商賣さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち盡す。 (昭和十二・七)
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の
住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の
永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチ
ホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にあり
ました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた
田村別荘のあった場所だそうです。
当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち
際が見えたと言われています。
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を
製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、
永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した
場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で
書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。
博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。
千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が
噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。
光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ
浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。